大賞
書道ひと筋であった亡父のお墓は本人の代表作『いのり』を刻む
名前:今井 有美子 年齢:62歳 住所:群馬県富岡市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
群馬県を代表する書家、水谷龍雲。自らが生み出した「書」を墓石として残してほしい。それが父の生前の意向でありました。
父の87年の生涯は書道ひと筋であり、22歳から書に携わり人生の大半を書に没頭し、書と生きた人生でありました。日本の書道界の発展と書の文化の振興に努めてまいり、父が世の中に残した数々の作品があります。その代表作のひとつ『いのり』を、石材店さんの手により、新たな息吹を吹き込んでいただきました。
そしてもうひとつのこだわりが「落款」です。父が生前、書家として墓石の題字を依頼される事も多い中題字はもとより、作品の落款は狭い中に画数も多く、細部まで忠実に表現する事が難しく繊細な作業を要する中、それを見事に表現し彫り上げるのが石材店なのだと、父が生前よく申しておりました。
『龍雲』の落款と、『いのり』の律動感、墨の濃淡、かすれ、滲み、跳ね、のひとつひとつ細部に至るまでを忠実に再現してくださり、まるで展覧会さながらのお墓が完成しました。最後に石材店さんの提案で、その傍らには『硯』と『筆』を…ということで、実際に父が使用していたものを元に、石材で設えていただきました。
父の生前の願いがこのようにして叶い、父のお墓が完成となりました。そしてそのお墓にはそれ以来、たくさんの方々が墓参りに訪れてくださっております。父もさぞかし喜んでいると思います。そして、わたしたち家族やお弟子さんたちも大変嬉しく思いながらお墓参りに行っています。
このお墓の制作にご尽力くださった石材店スタッフのみなさまに、心より感謝しております。
特別賞
夫と私、夫婦を象徴する弁護士バッジ型お墓
名前:伊藤 知恵子 年齢:73歳 住所:岐阜県土岐市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
夫は癌と診断されてから5ケ月も経たず77歳で旅立ちました。
夫とはその5ケ月間いろいろな話はしましたが、生前一度もお墓の話をしたことはありませんでした。
私は、夫が亡くなってもその実感がなかなかなく、ある日夫のいた部屋に入った時、ふっと夫は今宇宙旅行に行っているんだ、そうだ宇宙旅行に長期出張中なんだと思えたのです。そして、夫は宇宙旅行に行っているんだから、帰ってきたら私と一緒に入るお墓を終の棲家として作りたいと突然思い立ちました。夫が亡くなり頑張らなくてはと思っても、心が沈んで前向きになれない私の心に、その時一筋の希望の灯が見えた気がしました。
そして、どんなデザインにしようかと考えるのは楽しく、思い浮かんだのが、弁護士バッジを模したデザインのお墓でした。
私が弁護士になれたのも、今まで弁護士の仕事を全うできたのも、夫のおかげです。結婚してすぐ夫は私に何か勉強でもしたらと勧めてくれ、私は偶然新聞で目にした大学法学部の通信教育を始め、やがて夫の後押しもあり司法試験を目指すようになりました。そして10年後の43歳で司法試験に合格し、2年の修習後いきなり自宅で独立しました。当初は事務所の部屋もなく事務員もいない法律事務所でしたが、夫が55歳で会社を早期退職して私を手伝って助けてくれるようになり、それからは本当に夫婦で助け合って弁護士の仕事をやってくることができました。夫なくしてこれまでの弁護士の仕事はできませんでした。
ですから、弁護士バッジは夫と私の2人を象徴するものだとの思いから、私と夫が入る終の棲家のお墓は弁護士バッジに似たデザインが一番ふさわしいと決めました。
弁護士バッジはひまわりの中に天秤がついています。私は2つの天秤の当事者を公平に調整するのは愛だと常日頃考えていましたので、弁護士バッジにはありませんが天秤の真ん中には「愛」という文字を入れました。そしてそれは、私と夫も愛でお互いを支え合ってきたことも表すことが出来、最も私と夫のお墓に入れる文字としてふさわしいと。
お墓でお参りする際、年を取るとしゃがむのが苦痛になります。そこで、お墓の前に2つの勾玉形の椅子を作り座れるように工夫したのですが、この椅子に座るとちょうど目線がお墓と同じ高さになり、先日お参りしてくれた友人と椅子に座って話をしていたら、「まるでご主人と3人で話をしているような気になるね」と言われ、本当にそうだなと実感しました。
草取りやお花の管理の心配もしなくていいようにしたお墓なので、高齢になってからの私にも、遠方にいる子供らにも管理しやすいお墓になりました。
このお墓づくりを通じて、夫が亡くなって辛く悲しい沈んだ心を少しづつ癒すこともできました。そして、これからはあの椅子に座って夫と話をしに行こうかなという前向きな気持ちにもなれるようになりました。
お墓を作って本当によかったとお参りのたびに感謝の気持ちで一杯です。
お父さんへ
宇宙旅行はいかがですか?お寺でもらってくる塔婆は、宇宙のあちこちへ行くためのパスポートなんだそうですよ(お寺のおくりさまの話)。
私と2人だけで入るお墓気に入ってくれましたか?
隣にはあなたが可愛がっていた犬2匹と猫1匹の写真と名前の入った石碑もありますよ。多分これが一番気に入ったのでは?
まだまだ私は宇宙旅行をご一緒できませんが、そのうち私も宇宙に行ったらしっかり案内してくださいね。そして一緒にこのお墓で過ごしましょう。
特別賞
緑の林を背景に趣味の水墨画で竹と月を描いたお墓、広いベンチ付き
名前:恵本 正彦 年齢:81歳 住所:山口県下松市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
私は山口県の山深い県境の里山の農家に次男として生まれました。高校卒業後県外に就職し各地を回り定年退職後の現在は郷里から車で一時間離れた県内下松市に妻と二人で暮らしております。子供たちは近くの町にそれぞれ独立し二女と孫4人がおり、よくご機嫌伺いに来てくれます。
昨年私が八十歳になったばかりの春、長女が「爺さん死後にお参りする墓だけはハツキリしておいてね!」と急に言い出し、今まで思ってもいなかった終活の事を真剣に考えるようになりました。長女が言うには来年(令和六年)は閏年で縁起が悪いから今年(令和五年)中に建立しなさいとせかせます。その気になった私は、どうしたものかと考え、どうせ生前、に作るなら墓のイメージを一新して楽しみのある墓づくりをと決めました。
定年後、趣味の水墨画を始めて二十年になります。自分の描いた絵を是非、墓石に入れたいと思い郷里の石材店に相談したところ快く引き受けていただきました。試行錯誤の末、年末十二月に何とか建立することができました。ありがとうございました。私も妻も満足して一杯飲みながら喜んで墓づくりを子供達に披露したところ「自分の墓を作ってこんなに楽しく喜んでいる人も珍しい!」と言って笑われました。
建立場所は私の子供時代、昆虫採集、ドジョウ掬いなどして育った忘れられない故郷で中国自動車道建設時、移設新設した村の共同墓地です。生家(現在兄夫婦居住〉が見渡せる高速道路そばの高台で気に入っています。現在住んでいる私共の市街地から車で約一時間、子供孫達、が末水く記憶に残し、墓参りしてくれることを心から願いながら過ごしている今日この頃であります。
特別賞
大切な病院スタッフの供養を目的に始まったお墓越しに観音様が見えるお墓
名前:志太記念脳神経外科 住所:静岡県焼津
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
静岡県焼津市にある私たちの病院では、長年共に働いてきたスタッフが49歳の若さで亡くなるという悲しい出来事がありました。そのスタッフは新潟出身で、地域のために尽力してくれました。生前に「一緒にお墓に入れたらいいね」と話したこともあり、その約束を果たすため、医療法人としてのお墓を建立することを決意しました。
最初は小さなお墓を考えていましたが、以前訪れた高野山の奥の院にある企業墓を思い出し、「家」という枠にとらわれず、共に頑張ってきた仲間たちのためのお墓を作ることにしました。幸い、病院から近い藤枝霊園で広い区画を確保できたので、ここでの建墓を計画しました。
藤枝霊園には高さ15メートルの観世音菩薩像「藤枝大観音があり、手を合わせた後に顔を上げると観音様が見えるお墓にするというアイデアが浮かびました。私は静岡県藤枝市の石材店にお墓づくりを依頼し、何度も現地で高さや角度を計算し、紙粘土で試作を繰り返してイメージを持ち込んだところ、石材店のアドバイスもあり、想像していた以上のクールなデザインに仕上げていただけました。
最終的に、2枚の石板で構成された墓碑部分から中央の丸い穴を通して観音様が見えるデザインとなり、病院の建物に特徴的なアーチの意匠も取り入れ、敷地の囲いを外して自由に通り抜けられるオープンスペースにしました。これは、誰でも受け入れる病院のコンセプトや観音様の寛容さと一致しています。
完成したお墓は素晴らしく、納骨や開眼法要を行い、多くの方々が自由に訪れ、座って観音様を眺めたり、お弁当を広げたりすることができるようになりました。私は毎週お墓参りに行き、隣のお墓の方々にも「ベンチを自由に使ってください」と伝えています。
今回のお墓づくりを通じて、私はお墓の大切さを再認識しました。お墓はご先祖を振り返ると同時に、自分自身の過去を振り返り、未来への道しるべとなる場所です。また、病院で患者さんと向き合う際には、ご先祖や多くの方々の助けを感じることが多く、供養を通じて感謝の気持ちを表す場でもあります。
大切なスタッフの供養を目的に始まったこのお墓づくりは、最終的に病院に関わるすべての人々を受け入れる医療法人のお墓として結実しました。これにより、「世のため人のために役立ち、垣根なくすべての人々を受け入れたい」という志太記念脳神経外科の姿勢や想いを体現するものとなりました。
入賞
難病に侵された亡夫に、痛みから解放されどうぞ「やすらかに」を刻む
名前:根岸 玉恵 住所:東京都国分寺市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
やすらかに眠って下さい
一ヶ月の検査入院を経て夫の病名が確定した日の夜、私と夫は手を取り合って泣きました。私は声をあげて泣き、夫は静かに涙を流していました。筋萎縮性側索硬化症。体中の筋肉が徐々に萎縮していきやがて呼吸筋も冒され止まる。難病の中でも最も重い病名を告げられたのです。「俺は前世でよほど悪いことをしたのだろうか」絞り出すように言った夫の言葉が、今でも耳に残っています。
夫は穏やかで優しい人でした。朝の散歩は一緒に出掛け、途中から別々のルートをたどります。背の高さが25cm以上も違う私達は歩く速度が同じというわけにはいかず、夫々が好きなコースを行くようにしていました。それでも偶に帰り道に出くわすことがありました。そんな時遠くから「オーイ、オーイ」と呼び、振り返るとまるで久し振りに出会ったみたいに手を振りながら駆けてきました。
私が帯状疱疹で目に異常が出て入院した時も、心配して毎日顔を見せてくれました。三、四日毎に新しいパジャマを買ってきてくれるので、一ヶ月の入院中に十枚もパジャマが増えてしまいました。
夫に初めてその病気の兆候が表れたのは、ちょうど私達が結婚してから五十年に当たる年のことでした。発症してからの夫の容態は少しずつ確実に変化して行きました。食べ物を飲み込むことや、言葉を話すことも日に日に難しくなって、殆ど医学書の通りに進行して悪化の一途をたどったように思います。
ただ、脳には何ら異常が無く、手指もぎこちないながら動かせたので、スマホでラインを送ることは出来ました。今から思えば本人に予感があったのでしょうか。死の二十日程前に息子と私宛に夫々別れの言葉と感謝とが送られて来ました。息子には「どうかお母さんのことを宜しく頼む」と書かれていたそうです。
自分の八十歳の誕生日を四日後に控えた令和五年四月十六日、夫は私達家族に懸命に声を掛けられながら旅立って行きました。
体中の筋肉が萎縮していく痛みというものがどれ程のものか、とうてい分かってはやれませんでしたが、ボードに「身の置きどころがない」と度々書いて訴えていたことを思うと、今は痛みから解放されたのかと、私の体からも力が抜けて行くようです。
葬儀屋さんの紹介で石材店様との御縁が出来ました。墓所のいくつかをパンフレットで見せて頂きましたが、高齢の私にはやはり近いことが一番の条件であり、話し合った結果都立多磨霊園の抽選を待つことにしました。運よく多磨霊園に入らせて頂くことになりまたが、その間の石材店様の丁寧な対応は心に沁みるものがありました。展示されている石の中から私はすぐに青い石を選びました。夫が青い色が好きだったこともありますが、陽光を浴びてキラキラと輝くブルーパールというノルウェー産の石は、とても美しく魅力的でした。
夫の一年七ヶ月に及ぶ苦しい闘病を思い、せめて眠りの場所だけは安らかであれと、墓石に「やすらかに」の文字を刻みました。
あなた、ながい間私と一緒に居てくれて有難う。本当にお疲れ様でした。どうかゆっくりとやすらかにお眠り下さい。
入賞
卒業生に『愛は心が真中』の色紙を贈っていた亡夫の墓碑銘は『愛は心が真中』
名前:斎藤 照子 年齢:83歳 住所:埼玉県蓮田市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
「愛は心が真中」「桜と小鳥」
これが亡き夫に話しかけながら、私と子供たち皆で考えた末の我が家のお墓です。桜の蕾もまだ固い3月、いつものように自ら電動自転車で近くのかかりつけ医に健診に行き、帰宅後「なんだか肺の働きが悪いから後で詳しく検査しましょう」と言われたとの事。それから急に悪化し、あっという間の2ヶ月で、夫は逝ってしまった。90歳と3ヶ月。
気付くと花見の季節も過ぎていて葉桜の肱しい頃となっていた。悲しみも癒えぬまま、墓石を考えなければならなくなり、途方に暮れてしまった。夫は、小学校の教員時代書道が得意で、夫の字を気に入ってくださった方が、掛け軸用にと貰っていかれたり、墓石の字やお寺の看板を頼まれた事もあったと聞いていた。元気な頃、近くに嫁いだ娘たちから「他人の字の墓石じゃ気に入らないでしょうから、自分用に書いておいて」と冗談半分でよく言われていたが、「そのうちにな」と笑って結局残していなかった。家族で墓石を話し合っても話が先へ進まない。「やはり父さんの字でないとだめだ」家族皆それぞれにそう思った。ふと娘が、「確か父さん、校長先生をしていた頃、卒業生皆に毛筆で『愛は心が真中』と書いた色紙をプレゼントしていたよね。それ予備のもの残つてないかな」と言い出した。そして皆で主のいない書斎を探し回り、30年以上前の少し黄ばんだ色紙を見つけ出した。色紙を見た途端、皆の脳裏にあの頃の元気な夫の姿が蘇ってきた。
「『愛』という字は『心』が真ん中にあるだろう。『心』が一番大切なんだよ。今後長い人生を歩んで行く生徒たちに、そのことを伝えたいんだよ」と、ひたむきに生徒たちの未来を考えながら、目を輝かせて話してくれた夫。そうだ、これをこのまま墓石に刻んでもらおう。娘たちも同意見だった。
『「真ん中」は本来『ん』が間に入るが、字のバランス的に『ん』は抜いた方が格好がいいんだ」と夫なりの解釈だったようだ。こうして墓石に刻む文字が決まった。それから墓石の下の部分を考えた。夫の文字の下には….
我が家は、桜が植えられている川沿いにあり、結婚してから60年、桜並木も随分立派になってきた。毎年花見の季節になると、親戚や仲良しの友人たちと川土手にシートを広げて宴会をし、夫は酒を飲み赤ら顔で上機嫌だった。きれいな桜を見上げると、よくメジロやシジュウカラが花びらをついばんでいた。コロナ自粛中は、仲間に声をかける事もできず、ひっそり花見をしたが、今年はコロナも5類となり落ち着いてもきたので、「やっと賑やかな花見ができるぞ」と、2月まではとても楽しみに意気込んでいたのだった。
また、3、4年ほど前から補聴器をつけ、会話やテレビを見る際大変便利になったと言っていたのだが、ある時、外を眺めながら、「小鳥のさえずりが聞こえてくる」と、子どものようにはしゃいで教えてくれた姿を思い出した。夫は昔バードウォッチングが趣味で、双眼鏡を覗き込みながら、野烏を観察していたのだが、年齢を重ねてからは、興味を示さなくなっていた。年のせいだと思っていたが、耳の聞こえの問題だったのだ。その後は補聴器をつけ、庭先や川沿いでよく外を眺めていたのだった。そして、心を決めた。夫の文字の下には、桜と小鳥のイラストを添えよう。娘たちも大賛成だったが、これがなかなか難しかった。
夫のいなくなった家で一人、孤独に押しつぶされそうになりながらも、夫の喜ぶ顔を思い浮かべながら、桜と小鳥の絵を描いてみた。時に娘たちにアドバイスをもらいながら、何度も描き直した。そして、墓石に刻めるよう、線をしっかり描き、濃淡を考えた。こんな作業は83年間生きてきて初めての事だった。目はショボショボし、手は震えてきたが、必死に描いている間は寂しさを忘れられた。そして、何とかイラストも完成した。
墓石屋さんは、私たちの突飛な提案を、笑顔で親身に聞いて下さり、実際のサイズで紙に印刷し、墓地で同じ大きさのお墓に紙をかざし、より私たちのイメージに合うよう、文字やイラストのバランスや大きさを何度も一緒に考えて下さった。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
今、お墓参りに行く度、夫のやんわりした筆遣いを眺めながら、優しい気持ちになります。「父さん、これが残された家族で一生懸命考えて作ったお墓です。気に入ってくれたら嬉しいです。そのうちご一緒しますから、もう少し待っていてください。それまで、『愛は心が真中』で一日一日を大切に生きていきますね。」
入賞
好きな漢字を使って伝えたい想いを表現、「想逢無限」の創作熟語で
名前:白石 侯明 年齢:61歳 住所:山形県米沢市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
「そうおうむげん」。これは、新しく作った墓石に刻んだ文字です。
お墓のことでは、本当にたくさんの苦労がありました。父の後に母が亡くなり、自分は長男という立場ではありましたが、様々なしがらみから、墓守りは姉に任せることにしました。妻の実家も娘二人で、結婚を機に家を出ていたので、後を継ぐ人がいないという状況でした。
定年退職を迎え、これから終活も考えなくてはと思っていました。墓に関しては自分の苦労をもとに、独立して離れて暮らす子どもたちに迷惑はかけたくないというのが、第一の考えでした。ちょうどその時、妻の実家の菩提寺で、樹木葬や永代供養付のお墓の販売会が開かれると広告で知り、さっそく見学に行くことにしました。最初は、子どもたちに迷惑をかけなくて済むと思い、樹木葬にしようと考えました。子どもたちも喜んでくれるだろうと相談したところ、意外な答えが返ってきました。それは、「自分の家のお墓としての形がほしい。拠り所がほしい。」という返事。そんなことを言ってくれるのかと驚きました。そこで、樹木葬とともに紹介されていた永代供養付きのお墓の話を聞いたところ、独立した墓石の形をとりながら、お参りしてくれる人がいるうちは存続し、継承困難となれば永代供養に切り替わるという墓だと知り、子どもたちにも再度相談して、夫婦で建立を決めました。話が進む中、同じ寺の中にある妻の実家のお墓も墓じまいをして、新しいお墓に一緒にすることもできると聞き、お寺の和尚様に相談したところ賛成して下さり、墓じまいと新しいお墓の建立を同時に進めることにしました。義父母も、「無縁仏になることがなくなる」と安心し、とても喜んでくれました。
せっかくなので新しいお墓に刻む文字にこだわりたいと思い、好きな漢字を使って伝えたい想いを表せないかと、いろいろな四字熟語などを調べましたが、どれもしっくりせず、創作四字熟語を作るに至りました。それが、「想逢無限(そうおうむげん)」です。夫婦で話し合って、好きな漢字「想」「逢」を使い、「出逢いに想いを寄せることに限りなし」の意味を込めました。そして、最も大事にしたい言葉「ありがとう」を優しいひらがなで添えました。「出逢ってくれたすべての人にありがとうと感謝したい」という気持ちです。
そしてお墓が完成した昨秋、妻、義父母と四人で、新しいお墓を感慨深く眺めました。先の心配なく皆が生きていける方がご先祖様も喜んでくれると考えての今回の決断でした。「これで無縁仏にならなくて済む」という義父母の声に、私たちなりの正解を見たと思っています。
そして、「次に入るのは俺だ。」と秋の青空を見上げて笑っていた義父が、数か月後の雪降る日、突然旅立ちました。新しい墓の完成を見届けて安心したのでしょうか。義父は、きっと墓の心配をすることなく逝ってくれたに違いないとの想いが、悲しみの中で救いでした。新しいお墓に入ってもらえたことは、少しでも親孝行になったでしょうか。
新しいお墓に刻む文字を考えることは、まさに人生を振り返ることでした。ご先祖様へ、義父へ、そして、出逢ってくれた全ての人への感謝の想いを胸に、今、清々しい気持ちで新しいお墓を眺めています。
入賞
旅行好きだった亡父のお墓には長男が書いた「旅路」の文字と子の足跡
名前:柴岡 直美 年齢:40歳代 住所:山梨県北杜市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
小さな足跡と力強く書いた旅路への思い
「どうしようかな」
父が亡くなり私の頭の中で何度もこの言葉が繰り返されました。旅行好きな父は仕事を辞めてからは気ままに一人旅によく出掛けていました。そんな父が旅行先で急逝し帰らぬ人となってしまいました。
亡くなってからは悲しむ暇もない、という事を身をもって実感し何度も「どうしようかな」と考えながら葬儀も終わり、手続きも一段落した時「お墓はどうしようかな」と考え始めました。突然だったので、父と今後のことは詳細には話してはいませんでした。
最初は期限付きのお墓を検討していました。ただ時間が経つにつれこの選択をした場合。期限が迫った時に延長を含め「どうしようかな」と悩むのか、私や主人に何かあった時に子供がお墓を「どうしようかな」と悩むのか、と考えるようになりました。そこで家族と話し合い期限付きでないお墓を建てようと決心し、石材店の方と話しながらお墓のデザインを考えていきました。
具体的には。家名や家紋は入れず誰でも入れるお墓にしよう。文字は旅が好きだった父。旅に行ってしまったように今は少しだけ遠くへ行ってしまったのだという意味で「旅路」とし、習字を習っている長男に書いてもらう。
父は生前1日4時間散歩をし、非常に足が強く健康に気をつけていました。そんな父を見習って子供達には力強く未来へ歩いて行って欲しいという意味を込めて次男、三男の足跡を大地を踏みしめるような形で墓石に刻もう。
旅行先から家に帰る事もなく亡くなってしまった父を包むように納骨堂に、家に咲いている紫陽花をデザインしてもらう。
この事を基本に家族みんなで話し合い「お墓づくり」に参加し、無事完成しました。
近くに墓地があるので、毎日宿題が終わった子供とじいじに会いにいきます。小学1年生の双子はお線香をあげて合掌。近くの草むらで熱心にバッタを取っています。私はベンチに座りその姿を見ながら今日の出来事をじいじに話したり、夜ご飯「どうしようかな」と考えたり、夕日の場所で季節を感じたりと、これが私の日常です。
入賞
開拓者の母を思い思い蔵王の「油石」に「拓」の文字
名前:奥山 富夫 年齢:77歳 住所:宮城県柴田郡
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
母が昨年10月に91歳で他界しました。父母達は若くして現住所地に開拓者として入植し、便利な機械や道具も無い中で開墾に精を出し、近隣の開拓仲間と協力しながら奥山家の基礎を作りました。母は子供をおんぶして成人式に出たと生前話していました。今、きれいに整地された畑や田んぼを見ると、想像できない苦労があったと思います。そんな母を称え、話し好きな母に話しかけ、畑の作物に話しかけている姿、歌の好きな母の歌声を思い浮かべられるような墓石を作れたら、きっと残された者も生きることへの励みになるかなとの思いもありました。
石を選ぶときには、自然の形を最大限生かし、磨きを減らしてとの思いがありました。悩みながら運転していた時に見つけた石材店さんに飛びこんでみました。
いろんなアドバイスをもらいながら、気持を込めて作られた完成品がこの墓石です。蔵王の油石という自然石には開拓者の思いと後続の者への支えとして「拓」を、あくまで自然にということで「家」を除いて「奥山」を刻字してもらいました。落ち着いた蔵王の油石は蔵王山や雁戸山を想像させ、周りを囲んだ白い石は白鳥を思い浮かべ、きっと母も微笑んでくれていると思います。
石屋さんに感謝です。
入賞
花に囲まれ楽しくなるガーデニング風お墓 名前:関口 道子 年齢:74歳 住所:埼玉県熊谷市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
9年前、アイルランドのセラピスト宅を訪問。そこで霊と対面できるという円形の迷路のような庭園を初めて見、夫婦で感動!途中には花々、ドクロなどが自然に飾ってありました。その2年後に主人が病死、お墓をどのようにしようか、子供達と話し合いました。ユニークでとても楽しい人でした。アイルランドで見たのを日本で作れればと思ったのですが、日本の教室位の広さがあり、とても無理。でもそんなイメージを知り合いのガーデンプランナーと相談し、花に囲まれ楽しくなるような、又行きたくなるようなお墓にしました。
墓誌は近所の石材店さんが素敵に仕上げてくれました。タバコを止める位なら死んだ方がまし!という主人の顔を子供が陶器で作ったリ、自宅の庭石なども移設しました!月命日にはお参りし、季節の花など植え替えてます!喜んでるかな〜。
入賞
四国巡礼の旅で一目ぼれした伊予青石で特注したお墓
名前:石津 正明 年齢:77歳 住所:滋賀県大津市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
?昨年の終わりにお墓を新しく作りました。
それは20年ほど前のある日の、親戚の者から今あるお墓から出て行ってほしいとのことでした。
昔、我が家のお爺さんが長男でしたが、百姓が嫌で財産を全部渡すからあとは好きにしてと言った。
その後、京都に移り住んで、有名な画家の書生になっていたとのことです。
しかしお墓は、一族の者と一緒になっていました。だから毎年お盆にはみんなと違和感なく一緒にお墓参りをしていました。他の親せきから、このままでは何れトラブルになるとのことで、急な話の為に、お墓の借地分のお金しか手元になく、お墓はその時に沢山拝んでいたなかの一つを借りました。
それは、百年前ぐらいの為に墓標の字体も消えていて小さなものでした。
私は会社を定年後アルバイト的に働きました。10年ほど前から四国八十八ヵ寺周りを始めました。行く所々のお寺の境内に、見たこともない綺麗な青石がありました。これは何なんだろう?
これで墓石を作れれば、どんなに素晴らしいことだろうと思いました。そして調べたら伊予西條市の石材店さんが制作されているということで、巡礼の途中で会社にいき石材店社長とお話しさせて頂きました。その時に伊予青石物語を見せてもらいました。
しかし社長曰くわが社は直取引していないとのことでした。・・・がっかりしました。困った私は、数年あきらめていましたが、建てたい思いが募り、妻に相談しました。そうすると、子供や孫がお参りするか分からないのに、私は墓じまいしようと思っていると言われました。私はあわてて、私が生きている間は、そういうことを言わないでくれと言いました。
それから二人で伊予の石材店さんに行き、色々と墓石を見せてもらい竿石だけ特注で製作してもらうことになりました。そして墓標の字体は妻の書いた縁という書体にしてもらうこと。
これで家内もお墓をたやすく墓じまいとは言わないだろうと思いました。担当者にお世話様。帰りには、土産に家内の好きな伊予ミカンとうどんのお土産を買いました。安くて美味しかった。
問題は、私の家の宗教が天台宗で、戒律が厳しい比叡辻の聖衆来迎寺にあります。森蘭丸の父親のお墓もあります。300から400ぐらいあるお墓の中で、異彩を放つお墓を、和尚さんが、果たして許されるかどうかだと思いました。
お坊さんの飛鳥井さんと交渉すると意外と簡単にOKをもらいました。最近は、墓じまいする方が多くなっているとのことでした。お坊さんも大変だなーと思いました。
後は、近所の坂本にある別の石材店さんにお願いすることにしました。こちらも少し考えておられましたが、私の熱意を感じてOKをもらいました。2023年12月の中ごろに古いお墓の魂抜きをしてもらい、クリスマスのころに無事完成してもらいました。大変立派なものになりました。親戚の者もびっくりして何度もお参りに来たいとの事。
昨年は、夫婦の金婚式でした。また今年早々に私の喜寿のお祝でした。孫たちと温泉に行きました。私は、14年前に肺がんでステージ3でした。手術と抗がん剤で助かりましたが、13年ぶりに再発しました。確率は2〜3%だそうですが、放射線治療を25回しましたが、再再発したために、高額の分子標的薬剤ALKカプセルを飲んでいます。保険がつかえるので助かります。
今まで墓参りは年に3〜4回ぐらいでしたが、今は毎月お参りに行くのが楽しみです。皆が、お墓参りをしたいお墓を作りたいという思いが、実を結びました。皆様有難うございます。
余談ですが、墓標の竿石の残石で孫の字体で『おかげさま・ありがとう』を彫ってもらい庭石に。後、何年生きられるか分からないですが、出来るだけ多く墓参りに行きたいと思います。 合掌!
入賞
車のフロント部分、運転席、助手席もリアルなオープンカー風お墓
名前:宮下 清子 年齢:76歳 住所:大阪府東大阪市
想いを込めたお墓建立の際のエピソード
主人は若い時から外車に興味を持っていました。たまたまアメ車の赤いオープンカーが目にとまり、わが家のガレージに入庫。家族を乗せ、時には友人ともでかけてたくさんの思い出を愛車とともに過ごしました。
主人が亡くなり、お墓を相談したところ思い出をお墓にしませんか?とアドバイスをもらい進める事に。お墓の話をする度に、家族との思い出や、道行く人達の目にふれ、ほっこりとした日々がよみがえりました。
主人は、今この愛車と共にドライブに出かけました。
応募いただいた作品はいずれも、心のこもった、とても素敵なお墓ばかりでした。全優石では、当コンテストを通じてこうした素晴らしいお墓づくりのことをより多くの方に知っていただき、それをきかっけとして、心を込めたお墓づくりが増え、そのことでより多くの方の幸せにつながりますよう願っております。 |